ガダルカナル
餓島----ガダルカナルの戦いは、あまりにも酷いので、後年、その地名は「餓島」で通っていますね。
上陸した兵力は約3万、撤退出来た日本軍は1万、死者行方不明 2万、実際に戦闘での死者5千、残りの15000人が戦病死と餓死。
米軍の方は戦死戦傷合わせて6千人、とあります。
写真は戦闘後の戦死者の群れ、但し、これらは飽くまでも戦死者であって餓死者ではありません。
島の奥では、餓死者の方が 遥かに巨大な集団として、いずれもが じわりじわりと死んでいったのでしょうね。
ガダルカナルは赤道を超えての、ニューギニア近辺、日本本土からは遥か南方の彼方、おいそれと行ける地域では有りません。
戦線拡大の、その伸び切った箇所での悲劇でもあったでしょう。
ここでの悲劇を謳った詩(前にも載せてありますが)。
粥
ここにして これあり
これぞ この米のかゆ
はろばろと数千里
よよあし原みづほの国のみたからだ
ひととせを汗にまみれて
磨き上げたる 真珠宝石
わだつみの逆巻く潮を
のりきりて
いのちに代へて海軍さんの
護り来し神のたまもの
敵機の下をころびて
雨なすたまの中はひつ
汲みたる水を 飯盒にいれ
爆撃ごとに火を消して
去りては又焚きつけ
つとめて煙出さぬごとく
ねじり鉢巻して焚き上げたる
この味は二つなし
いささかの塩っぱい海水に
とぎしたの(1字不明)も
(わが涙までまじりしならじ)
いざ喰らへ
わが戦友(とも)よ
喰はで死にし
わが戦友(とも)よ
これぞこの米の粥ぞ
吉田 嘉七
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われは信ず
一、ジヤングルに深くこもれば
雨は夜々肌へを洗ひ
壕内に日々を送りて
敵弾を常に浴びつつ
いつの日に友軍機飛び
糧来るや われらは知らず
されどただわれらは信ず
われらは勝つと
二、幾日ぞ弾丸(たま)を撃たざる
幾日ぞ米を喰はざる
屋根なせる「星」の翼
(「星」とはこの場合「星条旗」を指す)
ジャングルに木のかげは失せ
嵐なす敵の弾丸に
つぎつぎに友はたふれぬ
されどなおわれらは信ず
われらは勝つと
三、みかへればやせさらばえて
肉そげし ほほよ 腕(かひな)よ
よし弾丸は免れ得とも
長くよし 生きてあるまじ
友軍機いまだ飛ばざる
糧秣(りょうまつ)も遂に来らず
しかも尚われらは信ず
御国は勝つと
吉田 嘉七
小学校時代、担任の先生が黒板に書いて下さったのを写し取ったもの。
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