「女御(にょうご)、更衣、あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり-----」
「はじめより、われはと思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者に、おとしめ嫉(そね)み給ふ-----」
「あらまほしけれ----」云々。
現在では文章ではありませんが同じように感覚的に有名な言葉として「・・・前向きに善処します・・・。」これがあります。この言葉は質疑応答の最後に締めくくりとして云われる事が多いのですが、何となく理解出来るので決着したと思われて過ぎますが、 然し、正確にはこの言葉が「イエス」なのか「ノー」なのか全く分りません。
もう一つ、「頑張ります。」がありますね。これも雰囲気として納得出来ますよ。然し、中身は分りません。西欧人のように握手したりキスをしたりする風習のない我が国ではスキンシップに代わる仕草として使われるとの事ですが。
結局、日本語は「曖昧模糊(あいまいもこ)」が基本になっているのだろうと思いますよ。源氏物語に代表されるような曖昧な文章の歴史がえんえんとして現在まで続いているという事しょう。何故このような言語が発達して現在に至っているのか----これを深く考えるとなると到底我が身の能力の範疇では出来ませんので止めますが、とにかく、このような言語文章を使わざるを得ない宿命にあるのですから目下のところはどうにもなりません。
勿論、これで格別不都合もなしに人生を送れるのですから、殊更に申し上げることもありません。然し、最近になって気が付くことは、例えば、日本語で書かれたパソコンの取り扱い説明書などをを読む際に、どうしてこのような理解出来ない文章で書かれているのかほとほと参ってしまう時がよくあります。英語の直訳調であっても、意味を汲み取って日本人が日本語で改めて書いた文面であっても、とにかく理解の範疇を越えますよ。分らないのです。書き手のインテリジェンスを疑う場合もありますが、むしろそれを越えた奥深い箇所に問題点が有ると思われますねえ。
源氏物語等の文章をもとにして、ピタゴラスの定理の証明、でも、因数分解の解き方でも、それとも悪名高きパソコンの説明でも、とにかく最高に論理的な文章を作るとなったら多分誰がやっても録な文章は書けません。それが当然だと思うとしたら、現在の日本語の文章ではそれらの作業を完全に遂行するのは不可能だと断定するほかありませんね。
古代ギリシャの言語はどのような仕組みになっていたか不明ですが、ピタゴラスにしてもアルキメデスにしても自国の文字を使って充分に論理的な表現が出来たと思われます。日常的にそれが出来たし、又、それを読む側においても、内容の理解には手間取ったにせよ、文章の流れによる文章の読解力は充分備わっていたと思われます。
それに比較して日本文では、どうしてもこの種の作業は不得手のような気がしますね。
つまりは、日本の言葉は、そのテの表現には向いてない言語だと思うのですよ。
もうひとつ、横書き文と縦書き文の功罪についてもよく聞きます。理科系の文は絶対に横書き文。文系ではこれまた絶対に縦書き文。こうでなければ収まりません。然し、これでは縦書きの源氏物語調でピタゴラスの定理の証明は物理的に出来ません。
そうであるのなら、現在は源氏物語は活字以外では読まれないのが普通なので活字化する際、思い切って横書きにすれば少なくとも表現手段としては出来ない事ではありません。それ自体は間違いではないのです。簡単な事だと思いますよ。
但し、これも簡単そうには見えても、現実としては殆ど不可能に近い変更になりそうです。縦書きを絶対に横書きにしない例として新聞がありますね。朝日でも毎日でも読売でも、とにかく絶対に横書きにはしないのです。又、すべての学校の国語教科書はこれから先何百年たとうとも縦書きを廃止する気配は見えません。六法全書、芥川賞作品、これらも頑強に縦書きに固執すのは間違いありません。一方、電話帖、時刻表、理科年表、その他の数表の類、これらは問答無用で横書きです。
どうしてなのでしょうか。本当の日本の文章は縦書きが本来の姿で、横書きは邪道と見られているのだろうか?。本来は逆なのではないのだろうか。世界的に見て、縦書きよりは横書きの文字文化の方が多いのですからね。
日本の場合は横書き作文の訓練が不足しているのではないか、それだからこそパソコンの取り扱い書が分らないのですよ。きっと・・・。
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ここまでは問題提起です。これから先をどう展開させるか、しばらく熟考してからにしませんと---と云う訳でしばらくお待ち下さいませ。
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