法隆寺には謎が多く、従って、それに関する書物も数多く出されています。ここでは代表として「隠された十字架---梅原猛」(昭和52.12 新潮社)を紹介しておきます。
〇「古事記」「日本書紀」には何故か法隆寺についての記述が殆ど書かれていない。それは故意に記述をしなかったと考えるべきである。
〇寺の戸籍と云われる「資財帳」は絶対に正確でなければならないが、法隆寺の資財帳には創建当時の事が殆ど書かれていない。奇妙なことである。
〇法隆寺の中門は四間なので、真ん中に柱が立っている。門の中心に柱が立っている造りはどう考えてもおかしい。<とおせんぼ>をしているようである。
〇五重塔の上に鎌が三本固定されてある。そんな所に何故ピカピカ光った刃物があるのだろうか。
〇創建当時の法隆寺には講堂がなかった。つまりその当時の法隆寺は学問寺ではなかった。とすると、一体何の為に建てられた寺だったのだろうか。
〇金堂の中に安置されてある御本尊は、真ん中に釈迦三尊、左に阿弥陀三尊、右に薬師三尊、と並んでいる。まず本尊が三体ある事がおかしい。
〇薬師三尊像は釈迦三尊と全く同じスタイルで印相も脇侍も同一である。又、これらの本尊は法隆寺の建物より古いので、一体どこから持ってきたのか不明である。
更に何故この本尊でなければならないのかそれも分からない。
〇釈迦如来の脇侍は通常、文殊菩薩、普賢菩薩、であるが、玉を持っているので薬王菩薩、薬上菩薩である。それでは完全におかしい。
〇釈迦如来の衣服は、如来の服装ではなく、中国北魏時代の帝王の服である。何故そんな衣服を纏っているのか
〇釈迦如来の左手の「与願の印」はこれでは全く意味が違っていまう。小指、薬指、を曲げる印はおかしい。
〇釈迦如来のお顔の眉間に釘が一本突き刺してある。白毫を止めるためのものとは言え常識外れの手法である。
〇光背の図柄は、あたかもめらめらと火炎が立ち上るようなデザインで異様だ。
〇救世観音が安置されてある夢殿は石造りであるが、これは建物そのものが石棺ではないのか。
この場所で聖徳太子が思索に耽り、瞑想をした、とあるが、こんな陰気くさい所で出来るものではない。ウソである。
〇救世観音のお顔は、北魏様式の仏面とは言え、その様式を備えた生首(なまくび)をその儘乗せたと云うほかない。とした場合、それは誰の生首なのか。
(下図、お顔の写真 参照)
(下図、お顔の写真 参照)
〇観音菩薩が手に持っているのは通常「宝珠」であるが、ここでは「舎利瓶」になっている。つまり「骨ツボ」である。何故か。
〇光背のデザインは釈迦本尊同様燃え盛る火炎のようだ。
〇この像は1200年間白布に巻かれた秘仏になっていた。その理由は何か。
〇夢殿の屋根の頂点には「露盤宝珠」が載っているがホントは「舎利瓶」。夢殿の屋根の上にはホネが載せてあるという事である。完全におかしい。
〇金堂の中には、御本尊三体、その回りに四天王、建物の内側には壁画が描かれてある。
建物が古く、壁画が新しく、その差は約100年くらいある。--とすると、100年間壁画の無い時代があった事になる。そんな事は有り得る事なのだろうか。
〇壁画には、インド女性としての仏画が描かれてある。壁画のテーマはすべて阿弥陀の世界らしいと云う。阿弥陀の世界とは死後の世界の事を指している。
すべてが死後の世界、阿弥陀の世界、というのも奇妙ではないか。
〇金堂の一階は九間幅で、二階は四間幅、従って一階と二階を通す「通し柱」はない。上と下は別々の構造である。どうしてこんな無理な建物を作ったのか。
その外
●四天王が持っているもの--火炎と刃物の不思議
●玉虫の厨子と橘夫人念持仏のもつ役割
●五重塔の土台から見つかったかなりの人骨
●五重塔四面の塑像の謎、釈迦と太子の二重イメージ
●聖霊会(しょうりょうえ)---法隆寺のお祭りの怪
●---その他、多数
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いささか前に出た本で、もう時代遅れになっているのかどうか、それも不明ですが、当時、かなりショックを受けた?本だったものでして〜〜。
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