2010年10月31日日曜日

昭和17年のプロ野球から-2

 
 
 昭和十七年三月七日の読売新聞から。
 最下段の球団「大和」は知りませんね。
 「朝日」も、これも当然ながら不明。
 「巨人」の沢村投手は、もしかしたら この時は健在だったのかも?。
 -----------それにしても 戦時中ながら、よくぞ やれたもんですなあ〜〜。

星と遊ぶ

 
 
    私は かぐや姫 よ

昭和17年のプロ野球から

 
  黒鷲5-3大洋
 巨人を入れたつもりでしたが、別試合が載ってしまいました。

 
  巨人9-2名古屋軍

 当時のプロ野球には
 巨人 阪急 名古屋軍 大洋 朝日 南海 阪神 大和

 以上、昭和十七年三月七日の読売新聞から。

 ※ いずれ改めて多少詳しく載せます(カメラ電池切れのため)

子宝

 

 
 讃えよ “ 子宝” 殊勲甲
 昭和17年10月20日の読売報知 神奈川版から。
 ---------- 子供の数は10人以上ですぜ?。
 とにかく、戦時中のあの時代は --生めよ増やせよ-- の時代でした。
 因に、我が家では男三人女二人------その中で私は 末っ子でした。

散歩道から

 

 
 雨が降ろうが風が吹こうが、今日も元気--------これがお互い何よりの毎日でしょう。

たばこ

 
 
 戦時中でのタバコ「Golden Bat」は「金鵄(きんし)」と名称が日本名に変更されたのではなかったかな。
 ------------------ ただ、こうなると詳しくは記憶していませんね。

金鵄勲章

  

 

 金鵄勲章(きんしくんしょう)はかつて制定されていた日本の勲章の一つ。授与対象は大日本帝国陸軍大日本帝国海軍軍人軍属。金鵄章とも。
「金鵄」という名前の由来は、神武天皇東征の際に、神武のの弭にとまった黄金色トビ(鵄)が光り輝き、長髄彦の軍を眩ませたという日本神話伝説に基づく。

 ともあれ、重ねて申せば、金鵄とは、古事記、日本書紀の建国説話に出てくる 金色の トビ のことで、神武天皇の東征に際し、長髄彦 ( ナガスネヒコ ) 征伐の時に、神武天皇が持つ弓の上端に止まり、金色のまばゆい光を発して敵の目をくらまし、天皇の軍を助けたという鳥のことです。

明治 22 年に制定され、武功抜群の軍人、軍属に与えられてきた金鵄勲章 は、この説話に由来するものですが、それには功 1 級から功 7 級までの等級があり、一時金もしくは年金が付きました。

金鵄勲章は法律上戦後も存続していましたが、昭和 22 年 ( 1947 年 ) に廃止。

(以上検索からです。)

 私達は小学 2 年生の修身の教科書で教わったのですが----------昭和 12 年 ( 1937 年 ) 以前に生まれた人にとっては、絵を見れば多分見思い出される筈です。

  現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされていない。したがって、神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものとする意見が出ており、崇神天皇応神天皇継体天皇、記紀編纂時期の天武天皇などを念頭に、弥生時代末期から古墳時代にかけての、種々の出来事を基にして創作したとする「モデル論」も盛んである。 また、神武東征物語は、邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルとする説もある。 

現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている[3]
 ↑それらは充分承知の上、として 以下。

八咫烏の道案内[編集]

鵄と混同されるのが八咫烏(やた の からす)ですね。
八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話で、神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるである。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わるが、3本足と明記された史料はない。

 以上、それらも、すべて承知として、以下 ↓
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 八咫烏の方は三本足 載せた絵を参照------間違いやすいので注意。
 神武天皇の弓の先でサーチライト----------この方が金色の
 神武天皇の道案内----------三本足の八咫烏

2010年10月30日土曜日

行商


 考えてみれば、戦前から戦後にかけては、八百屋、魚屋、etc は、リヤカーのモノを載せて売りに来るのが定番で、母親達が買いに行くケースは殆ど無かったような気がするのですが?。
 加えて、オーバーなどの重量物?の洗濯屋、下駄の歯入れ、鋳掛けや--------それらも、すべて同じだったとも思いますね。 
 但し、勘定は、その都度であったか帳面だったか、そのへん迄の記憶はありません。
 ただ、それが、いつの頃迄続いたかも、詳しくは覚えていません。
 又、配給品となると、それも論外だったでしょうが。

 まあ〜世の中、戦前から、やがて戦後を迎えたとは云え、まだまだ のんびりしていたのでしょう。
 加えて、戦災は影響なかった東北地方の山形市であったればこその現象だったのか、詳しくは知りませんが。

置きクスリ

 
 

 戦前から戦後間もなくの頃までは、クスリと云えば、各家庭に 置き薬の箱があって、それを使用していました。

 年に一度程度に、遠くから行商姿のクスリ屋さんがやって来て、使用分を清算し、不足分を補充していくのが習わしでした。
 加えて、おみやげ?として子供達には必ずと云っていい程に紙風船を置いて行きましたね。

 越中富山の薬屋さん-------と呼んでいたので、その通り富山県の方からやって来ていたのでしょう。

その習わしが消滅したのは、いつ頃からだったのか、思うに、戦後も数年を経て、住民の移動が激しくなった時代を迎え、それに対応出来ず終了したのでしょう。

 今となれば、懐かしい思い出です。
 その当時の薬屋さんは、確かに載せた写真のような風体をしていました。

 ※ 写真は検索からお借りしました。

訂正

 下記2編、共々同じコメントが入ってしまいました。

 最近はボケが甚だしく、こちらとしても辟易している次第。
 本来は、訂正が出来るのかも知れませんが、それも出来ず申し訳有りません。
 

乞食

 
 

 昔は、各家に、よく乞食が物乞いにやって来ましたね。ムズカシイ事は云わずに、ただ「くれ〜〜」と云う程度でした。当時は乞食を方言で「ほえど」と称していました。

 我が家では、駄菓子の残り、とか、場合によっては母親が 小さめの おにぎり を数個握って持たせてやったり------- そんな態度でした。

 現在は さすがここらでは見られなくなりましたね。

 載せた絵は「小さな乞食」ウイリアム ブグロウ 。

乞食

 
 

乞食(こじき)とは、
  1. 本来は仏教用語である。比丘僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。行乞(ぎょうこつ)。また托鉢。十二頭陀行(じゅうにずだぎょう)の一つで、これを清浄の正命と定める。もし自ら種々の生業(なりわい)を作(な)して自活することは邪命であると定める。
  2. 上記の事項が転じて、僧侶でない者が路上などで物乞いをすることを乞食(こじき)と呼ぶようになった。
  3. wikipediaより。
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    昔は、各家に、よく乞食が物乞いにやって来ましたね。ムズカシイ事は云わずに、ただ「くれ〜〜」と云う程度でした。

    我が家では、駄菓子の残り、とか、場合によっては母親が 小さめの おにぎり を数個握って持たせてやったりしていました。現在は さすがここらでは見られなくなりましたね。

     載せた絵は「小さな乞食」ウイリアム ブグロウ 。

紙芝居

 
 

平絵の紙芝居は、世界恐慌時代(1930年代)の日本で誕生した。日本独自の存在で、バリ島ワヤン・クリなど影絵芝居や紙人形芝居を除けば他国に例を見ないものであった。絵話、絵芝居、平絵と呼ばれることもある。
台本に沿って描かれた数枚から十数枚の絵をその筋書きに沿ってそろえて重ね合わせ、演じ手は、1枚目から順に観客に見せながら、筋書きとセリフを語っていく。 見せ終わった絵は、横に引き抜いて裏に回し、物語を展開させていく。
紙芝居では、演じ手(一人)と観客(複数)とが向き合い、実演を通して直接交流することにより盛り上がる。演じ手は観客の反応を見ながら、絵の引き抜き方、声色、台詞回しなど演じ方を自在に変える事もできる。この双方向性と一体感は、TVなどの一方通行のメディアでは得られぬ紙芝居の特質である。
よって、紙芝居においては素材の「絵」だけでなく、実演する「演じ手」も重要な要素であり、演じ手の質が紙芝居の効果をはっきり左右することになる。
 以上 Wikipediaより
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 紙芝居は戦前から戦中の前期の頃まで、随分とお世話になりましたね。記憶に残っているのは「呪いの指輪」。
----------------こわかったですなあ〜〜。その時は両手をいっぱい広げて顔に当て、その指の隙間から覗き見してましたよ。

ブーゲンビル島沖海戦

 
 

ブーゲンビル島沖海戦(ブーゲンビルとうおきかいせん)とは1943年11月2日太平洋戦争中にブーゲンビル島の攻防で生起した海戦ブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾において大森仙太郎少将(第5戦隊司令官)指揮の日本艦隊とスタントン・メリル少将指揮のアメリカ艦隊が交戦した。アメリカ軍側の呼称はエンプレス・オーガスタ湾海戦。

11月1日、連合軍は日本軍の拠点を避け、ブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾に襲来し、タロキナに上陸した。これに対し、日本軍はタロキナへの逆上陸を企図し、日本艦隊は15時30分にラバウルを出撃したが、その後、天候不良などから上陸困難と判断されて逆上陸は中止となり、輸送隊は引き返した。
一方、アメリカ軍は19時45分に偵察機が日本艦隊を発見、第39任務部隊はエンプレス・オーガスタ湾外で迎撃体制をとった。
この夜は霧雨で視界が不良だった。2日の0時27分、アメリカ艦隊はレーダーで日本艦隊を発見した。0時45分、日本艦隊もアメリカ艦隊を発見した。0時49分、アメリカ艦隊がレーダー管制射撃で砲撃を開始。日本艦隊の第5戦隊は照明弾を発射し、川内、時雨、五月雨が魚雷を発射した。0時52分、白露と五月雨が衝突、さらに1時07分に妙高と初風が衝突した。初風は航行不能となり、その後、アメリカ艦隊の砲撃により沈没した。また、川内も砲撃を受けて大破し、5時30分に沈没した。
アメリカ艦隊側はフートに魚雷が命中し、中破。体勢を立て直した日本艦隊はデンバーとスペンスを砲撃で損傷させたが、夜が明けると空襲を受ける恐れがある上、アメリカ艦隊が煙幕を張って転舵したことから有効打を与えたと誤認し、日本艦隊は退避した。
結局、連合軍のタロキナへの基地建設阻止は失敗した。この海戦後、大森少将は解任された。
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 この海戦については記憶がしっかりしているのですが、戦争はまだ中期の段階だったので、新聞切り抜きはありません。
 ブーゲンビルとの言葉の響き?がよかったので、記憶は今に至るも かなりキチンと残っていますね。
 一方の大東亜会議も、それなりの記憶は残っていますが、いずれにせよ、まだまだ戦勝時代?だったので、単に喜んでいただけでしたね。

窓からの景色

 
 
 雨降りの寒い日です。「まる」との散歩もお預け。
 こちらはこちらで、炬燵に とっぽりの状態です。

中国の対日姿勢

 
 
 対日関係、妥協せず=首脳会談拒否に強い意志−中国

 これらの記事を眺めると、いささか戦前の日本の対米英の姿勢を思い浮かべるのですが、どうでしょうか?。
 どうして、このような姿勢を保持しようとするのか、詳しくは不明ですが、彼等には彼等の道義があっての事
 だとも思うのですよ。
 つまり、これも かっての日本同様 メンツに関わる事でもあるのかも知れませんしね。
 
 北風を吹かせないで南風--------それを心掛け、ゆったりした時間をかける事が一番だとも思いますが。

星空

 
 
 これは普通に見られる夜空の写真。
 それにしても、この世には、何故、このようなモノ(物質)と空間が存在するのか、考えれば不思議です。
 加えて、この状態は無限なのです。
 無限ですよ---------- 無限なので、果てしなく存在するわけですよ。
 何故なのでしょうか?---------これは人間たるもの誰しもが考える哲学!なのではありませんか?。

一休さん-2

下記の文面、どうして間延びしたのか、理由が不明です。
みっともないですなあ〜〜。どうしてなのだろうか?。

一休さん

 
 
一休さん(いっきゅうさん)は臨済宗の禅僧一休宗純の愛称。主に、その生涯に様々な説話を残した事から江戸時代に説話が作られ、頓知で有名となる。昭和の中頃まで、絵本童話の題材、紙芝居の題材として良く用いられていた。特に、屏風退治などの話は有名。
屏風の虎退治 
足利義満が一休に出した問題の一つ。 「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。
このはし渡るべからず
桔梗屋が一休に出した問題の一つ。 店の前の橋を一休さんが渡ろうとすると、「このはしわたるべからず(『この橋を渡るな』の意)」と書いてある。しかし一休は、「この(はし)渡るべからず」と切り返し、橋の真ん中を堂々と渡った。
後日談で、同じ問題に加えて”真ん中も歩いては駄目”と難題を出されたが、“橋に乗らねばよいのだろう”と敷物を敷いてその上を歩いて渡ってきた。
 wikipediaより
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これらのハナシは後年 創作されたものであって、本物の彼は、もっと地味な?人物なのでは なかったのではないかな、と 子供心に思っていましたが。
つまり、彼に かこつけた逸話の類は、適当に、いくらでも創作出来るからですよ。