考えてみれば、戦前から戦後にかけては、八百屋、魚屋、etc は、リヤカーのモノを載せて売りに来るのが定番で、母親達が買いに行くケースは殆ど無かったような気がするのですが?。
加えて、オーバーなどの重量物?の洗濯屋、下駄の歯入れ、鋳掛けや--------それらも、すべて同じだったとも思いますね。
但し、勘定は、その都度であったか帳面だったか、そのへん迄の記憶はありません。
ただ、それが、いつの頃迄続いたかも、詳しくは覚えていません。
又、配給品となると、それも論外だったでしょうが。
まあ〜世の中、戦前から、やがて戦後を迎えたとは云え、まだまだ のんびりしていたのでしょう。
加えて、戦災は影響なかった東北地方の山形市であったればこその現象だったのか、詳しくは知りませんが。
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