以下、昔、私どもが教わった教科書(『初等科国語』八)からです。
色はにほへど散りぬるを
わがよたれぞ常ならむ。
どこからか聞こえて来る尊いことば。美しい声。
ところは雪山(せっせん)の山中である。
長い間の難行苦行に、身も心も疲れきつた一人の修行者が、ふとこのことばに耳を傾けた。
いひ知れぬ喜びが、かれの胸にわきあがつて来た。
病人が良薬を得、渇者が清冷な水を得たのにもまして、大きな喜びであつた。
「今のは仏の御声ではなかつたらうか。」
と、かれは考へた。しかし、「花は咲いてもたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。
無常は生ある者の免れない運命である。」という今のことばだけでは、まだ十分でない。
もしあれが仏のみことばであれば、そのあとに何か続くことばがなくてはならない。
かれには、さう思はれた。
修行者は、座を立つてあたりを見まはしたが、仏の御姿も人影もない。
ただ、ふとそば近く、恐しい悪魔の姿をした羅刹のゐるのに気がついた。
「この羅刹の声であつたろうか。」
さう思ひながら、修行者は、じつとそのものすごい形相をみつめた。
「まさか、この無知非道な羅刹のことばとは思へない。」
と、一度は否定してみたが、
「いやいや、かれとても、昔の御仏に教へを聞かなかつたとは限らない。
よし、相手は羅刹にもせよ、悪魔にもせよ、仏のみことばとあれば聞かなければならない。」
修行者はかう考へて、静に羅刹に問ひかけた。
「いつたいおまへは、だれに今のことばを教へられたのか。思ふに、仏のみことばであらう。
それも前半分で、まだあとの半分があるに違ひない。前半分を聞いてさへ、
私は喜びにたへないが、どうか残りを聞かせて、私に悟りを開かせてくれ。」
すると、羅刹はとぼけたように、
「わしは、何も知りませんよ、行者さん。わしは腹がへつてをります。あんまりへつたので、
つい、うは言が出たかも知れないが、わしには何も覚えがないのです。」と答へた。
修行者は、いつそう謙遜な心でいつた。
「私はおまへの弟子にならう。終生の弟子にならう。どうか、残りを教へていただきたい。」
羅刹は首を振つた。
「だめだ、行者さん。おまへは自分のことばつかり考へて、
人の腹のへつてゐることを考へてくれない。」
「いつたい、おまへは何をたべるのか。」
「びつくりしちやいけませんよ。わしのたべ物といふのはね、行者さん、人間の生肉、
それから飲み物といふのが、人間の生き血さ。」
しかし、修行者は少しも驚かなかつた。
「よろしい。あのことばの残りを聞かう。さうしたら、私のからだをおまへにやつてもよい。」
「えつ。たつた二文句ですよ。
二文句と、行者さんのからだと、とりかへつこしてもよいといふのですか。」
行者は、どこまでも真剣であつた。
「どうせ死ぬべきこのからだを捨てて、永久の命を得ようといふのだ。
何でこの身が惜しからう。」
かういひながら、かれはその身に着けてゐる鹿の皮を取つて、それを地上に敷いた。
「さあ、これへおすわりください。つつしんで仏のみことばを承りませう。」
羅刹は座に着いておもむろに口を開いた。
あの恐しい形相から、どうしてこんな声が出るのかと思はれるほど美しい声である。
「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず。」
と歌ふやうにいひ終ると、
「たつたこれだけですがね、行者さん。お約束だから、そろそろごちそうになりませうかな。」
といつて、ぎよろりと目を光らした。
行者は、うつとりとしてこのことばを聞き、それをくり返し口に唱へた。すると、
「生死を超越してしまへば、もう浅はかな夢も迷ひもない。
そこにほんたうの悟りの境地がある。」
といふ深い意味が、かれにはつきりと浮んだ。心は喜びでいつぱいになつた。
この喜びをあまねく世に分つて、人間を救はなければならないと、かれは思つた。
かれは、あたりの石といはず、木の幹といはず、今のことばを書きつけた。
色はにほへど散りぬるを、わがよたれぞ常ならむ。
有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず。
書き終ると、彼は手近にある木に登つた。そのてつぺんから身を投じて、
いまや羅刹の餌食にならうといふのである。
木は、枝や葉を震はせながら、修行者の心に感動するかのように見えた。修行者は、
「一言半句の教へのために、この身を捨てるわれを見よ。」
と高らかにいつて、ひらりと樹上から飛んだ。
とたんに、たえなる楽の音が起つて、朗かに天上に響き渡つた。
と見れば、あの恐しい羅刹は、たちまち端厳な帝釈天の姿となつて、
修行者を空中にささげ、さうしてうやうやしく地上に安置した。
もろもろの尊者、多くの天人たちが現れて、
修行者の足もとにひれ伏しながら、心から礼拝した。
(『初等科国語』八)
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