当時の新聞切り抜きからですが。
この時の御前会議は、多分に形式的な会議だったと思われるものの、相当に深刻な雰囲気に包まれていたと思われますね。
サイパン陥落のあと東条内閣が辞職し、東京空襲が始まり、戦局は誰がみても、回復が不可能と映じた頃、2月には もうヤルタ会談が始まるのですよ。
------------- どうするか、どうすればよいのか、列席者全員の脳裏には その思いがよぎった筈です。
誰もが陛下の方には向かず、発言も殆ど無し。形式的な会議である事をヨシとして、終了を待ったと思いますね。
このような会議では「会議録」なるものは保全されていないものでしょうか?〜〜まあ、それがあったとしても終戦と同時に廃棄されたとすれば何をか況や、ですが。
但し、敵は、終戦に至る迄、これらの宮城(皇居)内の建物等については爆撃をしていませんでしたね。---------確かそうでしたよ。それには敵には敵なりの考えがあったのでしょう。
いずれにせよ、天皇の お住まい は、いずれ戦局の推移によって、確か八王子のどこかの地下御殿に移転される筈だった とは聞き及んでいましたが?。
皇居から八王子迄は、御承知の通り、道路は殆ど一直線。そんな事を想定して、当時から、前もって一直線に通してあるのだとも聞きましたが。
勿論 電車も同じ、新宿から八王子となると殆ど一直線です。従って電車利用も当然ながら選択肢には入っていたででしょう。
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