2010年8月17日火曜日

餓死を選んだ山口判事


山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年11月16日 - 1947年10月11日)は日本裁判官佐賀県出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で死亡した事で知られる。

 食糧難で国民のほとんどがヤミ買いをして生き延びていたとき、配給だけで生活をしていた一人の判事が死亡、世間に大きな衝撃を与えた。この判事は、東京地方裁判所で食糧のヤミ売買を中心にした経済統制違反を担当する山口良忠(34歳)で、昭和22年10月11日のことであった。
      
 新聞にはこう書かれていた。

       
 「押し寄せるインフレの波では二人の子供が訴える空腹さえ満たしてやれなかった、そのたびに妻矩子さんはタケノコ『註:ここでの「タケノコ」とは、衣類等を何枚かずつ売って糊口(ココウ)を凌ぐ、つまり、それで生き延びる事』を提案し、急場をしのごうとしたが、山口判事は “人を裁く裁判官の身でどうしてヤミが出来るか、給料でやって行け”と家人をしかりつけ配給だけの生活を命じた」
        
 また、記事中に引用された日記は次のような内容であった。

 「自分はソクラテスならねど食糧統制法の下、喜んで餓死するつもりだ 敢然ヤミと闘って餓死するのだ 自分の日々の生活は全く死の行進であった、判検事の中にもひそかにヤミ買いして何知らぬ顔で役所に出ているのに、自分だけは今かくして清い死の行進を続けていることを思うと全く病苦を忘れていい気持ちだ」この記事を読んだ人々は驚いた。

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 彼以外の日本人は、すべて法律違反と知りながら、農家であれば、ヤミ米 ヤミ野菜 等を売って儲けて、一般人は、それを買って生き延びていたのでしたよ。
      
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 然し、それもこれも、空襲を受けていなかった地域ならこそ出来た手段で、焼け野原になった大都会の下層住人はどうしたか?。大量の餓死者が出たと聞いていましたよ。
      
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 それの例としたら、上野の地下道、そこには凍死して動かなくなった浮浪人が大挙してマグロのようにギッシリ並んで放置されたまま捨ておかれていたとか、そんな話を聞きましたが。(こうなると、ちょっとオーバーでしょうかなあ~~)
          
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 写真は、命がけで 地方に買い出しに出かける都会人の「買い出し列車」。

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