2010年8月16日月曜日

軍隊は天国であった。


 百姓のセガレとして育った知り合いの古老に尋ねた事がありました。

 「軍隊に入るのは何といっても嬉しい事でした。その理由は、まず、タンボの仕事から解放される事。タンボの仕事そのものが苦しいからという事ではありません。もっと別の理由、例えば、天候によっていろいろと対応策を考えたり、庄屋さんに出す年貢の事を考えたり、貧乏に明け暮れする生活に嫌気がさしたり、家族への配慮をどうするか、村の連中とどうやってうまくやっていくか・・・etc。それらに対する気苦労が毎日毎日大変な重荷になっていたのです。

 それが、軍隊に行けば、とにかく何も考えずに唯上官の命令に服していれば済むのでこれ程楽な事はないし、体力にも自信があったので、訓練なども全く気にならずにやれたし、それに加えてメシが腹一杯に食えるので何程嬉しかったことか、軍隊生活はまさに極楽の世界でした。

 ただ、軍隊生活もいつか除隊になって再び百姓生活に戻るのだとなれば、いっその事この儘天皇陛下のために命を投げ出して、家には「名誉」と「功労金」を残せばその方が良いのではないか、と何度となく考えたものでした。

 出来たら国民みんなが兵隊になって国を護るようになれば、その方がずっと良くなります。「国民皆兵」となったら子供や年寄りなどみんなが腹一杯メシを食えるようになる筈です。その方がずっとマシです。」


 軍隊生活は地獄であって、天皇の名のもとに戦争で死ぬなんて真っ平だ、と、これが国民一般の普通の気持ちだったと思うのですが、日本国民すべてがそうだったかと云えば決してそうではありませんでした。天皇陛下のために喜んで命を投げ出そうとしていた国民も相当数いた事も又事実なのです。古老の考え方は教科書通りの忠誠心とは違っていても、その延長線上の考え方として許されていた範囲の気持ちであったと思われます。少なくともそのような発言を許す土台として教科書は立派な役割を果たしていたと云ってよいのです。

 岩に向かって砕け散る波しぶきの豪快な光景があって、そのそばに爛漫に咲き匂う桜の樹が立ち、彼方には霊峰富士の山が聳える、そんな写真が新聞に載るようになると、何故か、日本国民は思考を停止してしまって、理由がないまま死に突っ走るのだ、と評した外人がいました。

情景は違っても、バンザイ突撃(玉砕)などが可能になるのもその一つの表れだと云います。特に桜の木は日本人の気持ちの深層に常に死をイメ-ジさせているとか、云われてみれば、確かに、桜の木は人間の血を吸って育つのだとか、各地によくある血染めの桜の例とか、切腹は大抵桜の木の下でやられるとか、仇討ちも桜の周りが多いとか、そうなると花の散り際の鮮やかさは死を覚悟した者に決断を促す役目を果たすのも理解出来るし、そのせいもあるのか、桜の木を豊富に植えてあるお寺は縁起が悪いという事で余り見かけたことはないし、確かにそんな桜の姿が大量に世の中に現れてくるとなると気味が悪いという理屈も頷けます。日本の国の花は「桜」でなくて「菊」の花だという理由も分かります。

 以上、別途 私のHPより でした。

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